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趣味の達人───大竹博明さん(51回卒)

秋山賢司(朝日新聞囲碁観戦記者)


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「藤沢会」弟子高尾紳路名人と秀行名誉棋聖に囲まれて
右から2人目が大竹先生(2007.7銀座にて)

 大竹博明さんと知り合って約20年になる。親しくさせていただき、世話になってばかりだが、私が敬服するのは趣味の広さと深さである。

 まず碁。よくいる碁好きとはわけが違う。大竹さんは中学時代、日本棋院の院生だった。院生とはプロ棋士のタマゴ。全国から天才や神童が集まり、厳しい競争に勝ち残ったものだけがプロになる。しかし高校進学を控え、プロへの道を断念する。「才能がなかったのです。でもプロの世間を垣間見たのは何ものにも代えがたい貴重な経験で、その後の人生をどれほど豊かにしてくれたか分かりません」
という。

 高校時代はしっかり勉強し、日本歯科大学に進んだ。さっそくお兄さんと囲碁部をつくって、関東大学囲碁リーグ戦に主将として出場した。2部で優勝に導いたのが自慢だ。大学を卒業して医局に残ってからは、碁をほとんど打たなくなった。元院生の実力があれば、アマチュアの大会に参加しても好成績をあげられるはずだが、多忙で時間が取れなかった。

 そんな大竹さんの前に、ある患者が現れた。碁界のトップ故藤沢秀行棋聖(当時)である。藤沢棋聖は棋聖戦の挑戦手合を前に虫歯で悩んでいた。大竹さんは思案した。大先生に万一のことがあってはいけない。応急手当の痛み止めをするか、それとも思い切って抜歯をするか。大竹さんは後者を選んだ。結果は完璧。藤沢棋聖は対局に専念し、棋聖のタイトルを守った。「大竹先生のおかげ」と感謝されたのはいうまでもない。

 これ以降、藤沢名誉棋聖と大竹さんは親交を深めた。大竹さんは藤沢名誉棋聖が主宰するアマチュア指導の会「藤沢会」の一員となり、藤沢門下のプロの指導を受けるようになった。大竹さんの伊豆下田の別荘が藤沢名誉棋聖の合宿研究会の会場になったこともある。

 囲碁名人戦を下田に招聘したことも功績の一つだ。下田の町おこしに役立てないかと考えた大竹さんは、関係者に働きかけ、名人戦の下田対局を実現させた。平成23年の第36期名人戦(井山裕太名人―山下敬吾挑戦者)第5局である。会場は下田蓮台寺温泉「清流荘」。いまでも「清流荘」のロビーには当時の写真と大竹さんが寄贈した碁盤が飾られている。

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第36期名人戦4局、下田石井市長ともに立会人として座す。(下田清流荘)

 碁の次は書。書も故藤沢名誉棋聖がかかわった。藤沢が大竹さんに「泰書会」を主宰する柳田泰山さんを紹介し、「泰書会」に入会したのである。入会当時は初心者だったが、瞬く間に上達し、泰山さんから「空山」という書の号を与えられ、年に一回の「泰書展」への出品も許されるようになった。

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藤沢秀行とのスナップ・泰書展に於て

写真は最初に「泰書展」に出品したときのもの。右は藤沢名誉棋聖。中央が大竹さんの作品。唐の詩人王維の「鹿柴(ろくさい)」の冒頭の「空山不見人」(空山人を見ず)は、号のもとになった有名句である。その後の大竹さんは、菅原道真、孟郊、袁枚らの碁の詩を次々と「泰書展」に出品している。碁と詩が書で結びついたのである。

 碁と書だけでも、趣味の達人と呼ぶにふさわしいが、これだけではない。カメラはプロ級。私も『週刊碁』などに大竹さんの撮った写真をしばしば使わせてもらった。

 最近は佛画を描くことにもハマっているという。昔から琴棋書画といって、教養人に欠かせない四芸とされてきた。琴(音楽のこと)はいざ知らず、棋(碁のこと)と書と画の三芸に堪能な大竹さんこそ、真の教養人であり、趣味の達人といっていい。
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北京藤沢秀行記念室で日中交流会、観戦は王汝南中国棋院理事長