■共立歯科医学校前史

天保11年(1840)
 【2月1日】 
 〔他国〕
  世界最初の歯科医学教育機関ボルチモア歯科医学校、メリーランド州より設立認可(メリーランド大学歯学部の前身、開校は同年11月)
 
安政3年(1856)  
 〔他国〕
  ペンシルベニア歯科医学校創設(ペンシルベニア大学歯学部の前身)
 
慶応3年(1867)
 【5月15日】
  日本歯科大学創立者中原市五郎、旧松本藩領、信濃国伊那郡下平村に生まれる(現、長野県駒ヶ根市赤穂町)
 
明治元年(1868)
 【9月8日】
  明治と改元、一世一元の制を制定
 
明治2年(1869)
 【6月29日】
  東京招魂社仮本殿を九段坂上に建設(明治12年、社号を「靖国神社」に改め、別格官幣社となる)
 
明治5年(1872)
 【8月3日】
  文部省「学制」を頒布し、わが国の教育方針を樹立
 【11月9日】
  太陽暦を採用し、明治5年12月3日を以て明治6年1月1日に定める
 
明治6年(1873)
 【6月19日】
  旧幕以来の医業従事者の年齢、本籍、開業地、修学履歴、開業履歴、専門科名等を調査(「医術開業ノ者ヲ査点セシム」)
 
明治7年(1874)
 【8月18日】
  わが国の最初の衛生行政法規「医制」を東京、京都、大阪の三府に達。全76条からなり、衛生行政、地方衛生、医学教育、医薬分業、医師組合、医師・薬舗(薬剤師)・産婆(助産師)開業試験法等についての指針を提示
 
明治8年(1875) 
 〔他国〕
  ミシガン大学歯学部創設
 【2月10日】 
  医制第37条(満25歳以下で新規開業希望者への医術開業試験)の実施方を東京、京都、大阪の三府に達。全国各道県へは翌9年1月に達(「医師ヲ試験セシム」)。内外科(一般医科)のほか暫定的に、内科・外科・産科・眼科・口中科・整骨科の各専門科での受験を認める。のちに「旧試験」と呼ばれ明治16年末まで府県で実施されたこの暫定試験による合格者は、約3300名
 【10月2日】
  小幡英之助、「歯科専門」により同日付で内務省医術開業免状第4号を下付さる。明治8年夏に東京医学校(現、東京大学医学部)で受験し同校の上申書によれば、小幡の成績は「中の上」で、歯科専門第一番目の合格者。明治16年末までの旧試験では、歯科専門で29名、口中科専門で2名が合格し内務省免状を下付された
 
 
明治12年(1879)
 【2月24日】
  「医師試験規則」を公布(それまで各府県の実情にあわせて実施していた旧試験について、試験法・試験時期を全国的に統一し、問題の選定と答案の採点・合否の決定を内務省衛生局が行い、専門科名では「口中科」を「歯科」に変更、8月から施行)
 
明治13年(1880)
 【7月13日】
  近代法制の嚆矢である旧刑法制定(施行は明治15年1月1日)。「健康ヲ害スル罪」の中で第256条に「私(ひそかに)ニ医業ヲ為ス罪」を条文化し罰則を定める(現行刑法が施行される明治41年まで、無免許医業で刑事告発された者約9千名)
 
明治16年(1883) 
〔他国〕
パリ歯科医学校創設(パリ第7大学歯学部の前身)
 【10月23日 】
  太政官布告により「医師免許規則」「医術開業試験規則」公布(施行は明治17年1月1日)
  「医術開業試験規則」では、専門科を廃しすべて普通試験を行い一元化することとなったが、歯科は「普通外科術ト稍異ナル」ことから、別に試験科目を定めた(医歯二元制の明文化)
 【12月28日 】
  内務省、各府県に「医籍編製」を達。17年1月1日現在の医師の氏名等を取調べ、3月中に提出するよう指示
  それまで経過措置として各府県から仮免状を下付していた従来開業医師約3万5千人、内務省から免状を下付した医師約5千名(旧試験及第医、大学卒業医、奉職履歴医)に対し、旧免状を返納させ新免状を交付し、統一した医籍を編制して内務省の医籍原簿に登録することとした。明治17年の歯科医術開業試験合格者からは、別途「歯科医籍」に登録される
 
明治17年(1884) 
〔他国〕
マンチェスター大学歯学部創設
 【10月30日】
  東京府士族青山千代次、歯科医籍第1号に登録(官報明治17年11月5日号で公告)
 
明治18年(1885)
 【3月23日】
  内務省、「入歯歯抜口中療治接骨営業者等取締規則」の制定方を道府県に指示(地方の実情に従い取締規則を定め、地方庁で営業者の鑑札を下付)。東京府では明治18年中、67名の営業者に鑑札が下付された
 
明治21年(1888)
 【3月】
  石橋泉、久保田豊、わが国最初の歯科医学教育機関「東京歯科専門医学校」を京橋区弥左衛門町に設立
  入歯歯抜口中療治の営業鑑札所持者(従来家)の神翁金斉、吉田仙正、竹澤国三郎が同校の運営に助力し、中原市五郎、中村好正ら30数名が入学。設立者両名の離反から8月31日に廃校届が出され、同校は分裂。
  翌9月、久保田豊は日本橋蛎殻町に、石橋泉は下谷区御徒町に同一校名の「東京歯科専門医学校」を開設
 
明治22年(1889)
 【4月】
  中原市五郎、東京府で施行された歯科医術開業試験に合格、5月28日付で歯科医籍第86号に登録(官報明治22年6月19日号で公告)
 【11月6日】
  神田区錦町に移転した石橋泉の「東京歯科専門医学校」は廃校届を東京府に提出。従来家である神翁金斉、吉田仙正、竹澤国三郎に高橋富士松、鈴木玉吉(玉斎)が加わり同校を継承して「歯科講義会」を設立。
  久保田豊の「東京歯科専門医学校」は明治30年頃に自然消滅
 【11月11日】
  磯野橘斎「私立麻布歯科医学校設立願」を東京府に提出
 【11月】
  高山紀斎「高山歯科医学院設立御認許願」を東京府に提出し、翌23年1月開校(東京歯科大学の前身)
 
明治23年(1890)
 【11月23日】
  わが国最初の歯科学術団体である「歯科研究会」発足。発起人総代は榎本積一で、第1回総会には48名が出席。
  歯科研究会は歯科医、歯科専門医師、従来家、歯科医生(歯科医宅で助手等を務める開業試験受験生)を会員として、月に1回会同して歯科医学・治術に関する講習を行い、情報を交換した。
  中原市五郎は明治25年前後に同会「協賛員」として加入する。24年1月から機関誌『歯科研究会録事』(後継誌『歯科研究会月報』)を発行。のち「歯科学会」と改称し、最盛期には会員数400名余を数えたが明治34年5月休会し、自然解散
 
明治25年(1892)
 【5月】
  「歯科講義会」は従来の組織を変更し、小島原泰民と伊澤信平を講師に毎週水曜日、日本橋の筒井学校で歯科医術開業試験学科目の講習会を開講。毎月「講義録」を刊行する
 
明治26年(1893)
 【2月4日】
  中原實、東京市麹町区飯田町2丁目67番地に生まれる
 【6月24日】
  東京府下在住の歯科医・歯科専門医師34名により、京橋区の大日本私立衛生会において「歯科医会」の発会式が挙行される。
  「歯科医会」はわが国最初の歯科医師団体で、7月1日に警視庁令に則り設立認可。
  創立当初の役員は常議員に伊澤道盛、伊澤信平、小幡英之助、高山紀斎、井野春毅、榎本積一、菅沼友三郎、佐藤丈二郎。
  幹事に斎藤英三郎、中原市五郎、青山松次郎、平岡頼一、富安晋。29年11月に「日本歯科医会」と改称
 
明治30年(1897)
  「官立歯科医学校」設立運動おこる。血脇守之助ほか35名、衆議院と貴族院に設立請願書を提出
 
明治32年(1899)
 【8月3日】
  勅令第88号を以て「私立学校令」公布
 
明治33年(1900)
 【11月3日】
  中原市五郎、第四次麹町区会議員に当選
 
明治34年(1901)
 【4月1日】
  第一〜第五高等学校医学部が独立し、千葉、仙台、岡山、金沢、長崎の各官立医学専門学校となる
 【6月7日】
  内務省令第16号により「医籍薬剤師名簿編成竝加除訂正規程」を定め、医師・歯科医・薬剤師の生年月日、免状種別、本籍地、開業地等を調査。各人毎に記入する調査個票を用いた全国的な動態調査により、現存する医師らの実数が判明する。
  明治34年度の医師・歯科医数は、3万3508人(前年度より7146人減)
 【10月23日】         
  区会議員中原市五郎の建議により麹町区に嘱託歯科医を設置

明治35年(1902)
 【3月24日】
 東京帝国大学医科大学(東京大学医学部)に歯科教室開設(主任:石原久 助教授)

明治36年(1903)
 【4月1日】          
 医術開業試験及び薬剤師開業試験を内務省より文部省に移管
 【11月2日】
  東京帝国大学医科大学歯科教室、歯科外来診療を開始

明治38年(1905)
 【7月1日】
  文部省令第12号により「私立医学専門学校指定規則」制定
 【10月】
  歯科講義会は吉田仙正の個人経営となり、「吉田歯科講義所」と改称

明治39年(1906)
 【4月5日】
 中原市五郎、東京帝国大学で開催された第二回日本聯合医学会(会頭:北里柴三郎)の第十七部歯科部(部会長:石原久)において、「第一大臼歯ニ就テ」の演題で口頭発表
 【5月2日】
  法律第47号で「医師法」、法律第48号で「歯科医師法」を公布(施行は同年10月1日)。日本歯科医師会は昭和32年(1957)に、 歯科医師法(旧法)公布の5月2日を「歯科医師記念日」に定める
 【10月30日】
  文部省令第17号により「公立私立歯科医学校指定規則」制定